この記事はアメリカで妊娠がわかったとき(2022年)のことを振り返って記事にしています。
医療は日々進歩しており、当時と現在では薬や点滴の処方などが変わっている可能性もあると思いますのでご理解いただいた上でお読みください。
アメリカで妊娠が判明した!
妊娠がわかったのは2022年春のことでした。
当時はコミカレで取っていたクラスの最終課題に追われていた時期だったため、第一子の時の悪阻が酷かった私は、「課題をこなしながら悪阻を乗り切れるかな?」ということが最初の心配でした。
生理が2日で、しかもかなりの少量で終わったことと、体に違和感を感じていたことで「もしかして…」と思い、学校へ子どもを送った帰りにCVSに寄り、妊娠検査薬を購入。
私が購入したものはクリアブルーのアナログタイプ。
デジタルタイプもあるようですが、デジタルにする意味があまりわからなかったので、安いアナログタイプ(2本線が出るもの)を選びました。
妊娠5週で悪阻が始まった
第一子のときも早い段階から悪阻が始まりました。
今回もわりと早い段階からの悪阻だったと思います。
最初の数日は「○○が食べたい…」だったのですが、調理していざ食べようとしても、数口だけ食べた後、「もういらない…」となるパターンばかり。
フライドポテトが食べられそうだ!と夫にマクドナルドのフライドポテトSサイズだけを買いに走らせたにも関わらず、数本食べて終了、なんてこともありました。
5週(推定)が終わる頃には何も受け付けなくなっており、普通の生活もままならない状態でしたが、まだ初診にかかることすらできていませんでした。
アメリカの初診は9週以降
日本だと妊娠検査薬で検査後、陽性反応が見えたらかかりつけの婦人科などで診察してもらうことが多いと思います。
私も第一子のときはそうでした。
アメリカでは妊娠がわかったらまず自宅近くのOB/GYN(obstetrician and gynecologist)を探し、電話、初診の日を決めて予約→初診を迎えるわけですが…。
「初診は9週になってから」と言われてしまいました。
私は既に悪阻で何も飲めず、食べられずの日々が続いており、衰弱していくのが目に見えてわかっていたのです。
そのことを伝えても、「何かあったらERに行きなさい」と言われてしまい、あくまでもOB/GYNでの初診は9週以降でないと受け付けることができないと言われました。(絶望)
飲めない、食べられない日々。どんどん減っていく体重。
アメリカで妊婦生活(特に悪阻期間)を送る中で一番辛かったことナンバー1、それは
「食べれそう!」と思ったものがすぐに手に入らなかったこと
です。
例えば、「スーパーのお寿司の酢飯なら口に入れられそう…」と思っても、アメリカの寿司の酢飯ではない。
「コンビニのツナサンドなら食べられそう」と思っても、アメリカのセブンイレブンにはない。
とにかく「日本のコンビニ」や「日本のスーパー」が恋しくて恋しくてなりませんでした。
アメリカにいるという状況の中、食べられそうなものが手に入らず、水すら飲むことができず、寝返りをしただけで吐き気が襲ってくる。
私の身体はどんどん痩せて衰弱していってしまいました。
訪問ドクターとER
以前に一時帰国に際し、Covid-19検査をしてもらうために訪問ドクターを呼びました。
彼らに自力で動けず、ERに行けない旨を説明して、本当に私は大丈夫なのか、点滴などを打ってもらえないかと夫が問い合わせてくれたおかげで、訪問ドクターが来てくれることになりました。
彼らは私に状況を聞き、脈をとったり血圧を測ったり、尿検査をするように言ってくれました。
尿検査では案の定ケトン体が出ており、私は点滴を受けることになりました。
電解質やブドウ糖の点滴でしたが、点滴を打ったあとは症状が少しマシになり、1週間ぶりにシャワーを浴びることができました。
ERにも行きましたが、待ち時間がかなり長く、待合には自分を含め体調が悪そうな人ばかり。
妊娠初期に病気をうつされたくない…!という思いもあり、訪問ドクターを呼んでいましたが、訪問ドクターにもERに行くことを促されてしまうのでした。
救急車を呼んだ
何度かお世話になった訪問ドクター。
「もう専門医のところに行ったほうが良い。私たちではどうにもならない」と、訪問ドクターに救急車を呼ばれてしまいました。
ERにも自力で行くことができない(起き上がれない)体にまで衰弱してしまった私。
体重は30キロ台に落ちていました。
「大丈夫、生きているから」と言っても、夫の目には今にも死んでしまいそうに見えていたようです。
救急車を呼んで数分後、家の前には救急車や消防車が集まり(夫談)、ご近所様がザワつく程の光景になっていたようです。
起き上がれない私は、ストレッチャーのようなものに乗せられ、2階から1階にスライドさせる器具を装着した状態で階下に降り、救急車に乗せられることになりました。
関連記事→アメリカで救急車を呼んだらいくらする?
救急車でERに運ばれた
救急車では救急隊員が優しく話しかけてくれていました。
「今すぐ受け入れてくれるER」を電話で探し、受け入れ先が見つかったところで出発です。
夫は自家用車で後ろに続きました。
ERには子供を連れてきてはいけない、という決まりがあったのですが、幸いその時間帯に上の子はデイケアに行っていたのでタイミングが良かった(?)です。
人生で初めて救急車に乗った!
しかもアメリカで!
しかもERに行くなんて!!
意識が朦朧としているにも関わらず、その状況がなんだか可笑しくなってしまい、車内の写真を撮ろうかと思ったけれど不謹慎すぎてやめました。(実際、そんな余裕はなかった)
アメリカでは簡単に入院はできない
今思うと、恐らく日本では即入院させられるほどの妊娠悪阻で、私は今日にでも入院させてほしかったのですが、点滴終了後、ドクターが回診に来て、「クラッカーを食べて炭酸水を飲んでね。クラッカーにはカロリーの摂れるピーナツバターを塗ると良いよ」と言うのです。
だからそれが食べられないっつーの。
その上にピーナツバターとか。イミガワカラナイ。
ナースにコップ1杯の水を出されて、「これを飲み終わるまで帰ったらダメ」と言われ、涙目になりながら数口含んで「帰らせてくれ」と言うと、彼女はコップの中身を見てため息をつき、「家に帰ったら水を飲むのよ」と言い、家に帰れることになりました。
吐き気止めの薬を処方された
ベッドで横になっている最中にずっと検索していた「アメリカでだともらえる吐き気止めの薬」。
喉から手が出るほど欲しかった薬を処方してもらえることになりました。
が、私にはあまり効果がなく、相変わらず寝返りを打っただけで「オエ――――」となる日々が続いていました。(吐かない、吐けなかった)
妊娠がわかり、初期のちょっと胃がムカムカする程度のときは、ビタミンB6なんて飲んでみてはいましたが、まぁ私には効かなかった。
処方してもらった薬は、日本でも処方してくれるプリンペラン(米一般名:Metoclopramide メトクロプラミド)でした。
プリンペランの処方もむなしく、私の悪阻は一向に良くなる気配はありませんでした。
次に処方されたのが抗がん剤の副作用(吐き気)にも使われているゾフラン。
ガチめのやつキターーーーー!
ゾフランは恐ろしいほどの効果がありましたが、結局食べられないことには変わりありませんでした。
ついに入院することに
あまり飲みたくないと思いつつもゾフランに頼って過ごしていましたが、ついに入院することになりました。
ようやく待ちに待った初診の日。
私は妊娠9週になっていました。
初診の日の3日前にもERに行き、点滴2Lを打ち、ゾフランを処方してもらっていたところでした。
自力で歩けない状態で、なんとか夫の運転する車で病院へ。
歩けないので病院の受付で車椅子を借りて診察室まで行きました。
はい、パジャマで行きました。
ナースアシスタントに促されて体重計に乗ると、「ソー タイニー(So tiny)」と言われ、苦笑いするしかない私。
その診察室に行くと、猛烈な吐き気が襲ってきてオエオエ言っていると(吐いてはない)、急に目の前が真っ暗に。
あ、ダメなやつ。
「ヤバイ、何も見えない、目の前が真っ暗。どうしよう」
と横にいた夫に言うと、ナースアシスタントもあわててドクターを呼んできてくれました。
少し落ち着いたところでドクター(女性)に「これほど酷い状態は見たことないわ…。あなた、ERに行きなさい。私が電話しとくから今すぐ行くのよ!」
と言われました。
あぁ、また車で移動するのか。(絶望)
しかしこのドクターがERに電話してくれていなかったら私は入院できなかったと思います。
入院生活4日、つわりがマシになった
入院は4日間に及びました。いや、短くないですか?
入院中は相変わらずブドウ糖やビタミンを点滴し、それに加えて注射で吐き気止めの薬を入れる。
時には痛さで悶絶するほどの点滴を入れられ眠れないほどでした。
しかし24時間点滴に繋がれている状態でしたが、それが良かったのか入院4日間で体調は劇的に回復しました。
私の腕は点滴や注射の針を刺しすぎていて、内出血で直視できないほどの痛々しさを放っており、最終的には手首に針を刺すという暴挙(?)に出られました。
辛かったですが、病院にいたドクターやナース、ナースアシスタントの面々は全員優しくて、医療従事者の徳の高さに感動すら覚えたほどです。
退院後、つわりがおちついてきた
4日で退院した私でしたが、4日前までが嘘だったように食欲が出てきました。
と、言ってもクラッカーやオートミールが食べられる程度。
それでも悪阻が完全におさまったわけではなく、波はありましたが1日中「気持ち悪い気持ち悪い×10000」と思考が「気持ち悪い」で埋まっていた時期とは大きく変わっていたように思います。
この頃、10週になっていました。
【まとめ】とにかく辛かったアメリカでの妊娠初期
第一子妊娠時も悪阻は酷かった私ですが、「もしかして二人目は悪阻の種類が違うかもしれない」とささやかな希望を抱いていました。
その希望は打ち砕かれ、第一子のときよりも酷い悪阻に苦しめられたのです。
5週から始まった悪阻でしたが、すぐにピークに達し、10週までしんどい期間が続きました。
約1か月、食べ物も飲み物もほぼ口にできず、点滴により生かされていました。
11週以降は気持ち悪いながらも少しずつ人間らしい生活ができるようになっていきました。
今回これほど酷い状態になったのは、外国(アメリカ)にいたせいでもあったと思っています。
住んでいた地域に日系スーパーはなく、食べたいもの、飲みたいものが簡単に手に入らず、尿からケトンが出ても入院させてもらえず、おまけに初診が9週でなかなか専門医にお目にかかれず。
心が折れてしまい、正直お腹の赤ちゃんのことなどほとんど考えられませんでした。
それでもお腹の中の赤子はどこからともなく栄養を吸収し、スクスクと着実に育っていきました。
赤ちゃんは強い!
私も強かった!
現在、悪阻でシンドイ思いをされている方もいるかと思います。
悪阻はいつか終わる!でもいつやねん!
と私も思いながら過ごしていました。
悪阻がマシになってくると、あれだけ眩しさに苦しんで嫌いになっていた太陽の光や外で当たる風の気持ち良さに幸せを感じることができるようになりました。
そして日本の医療制度の有難さに気づき、感謝できるようになりました。
アメリカで私に関わってくれた医療チームにも感謝です。
辛かった時期でしたが、ある意味アメリカでの良い思い出になったように思います。
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